笑いは、時に残酷だという。侮辱的発言ですら、笑いとして転化させることが容易だ。いや、転化させる必要すらなく、笑うことができる。ここに道徳心や規律を持ち込むことで、一般常識上では規制という作用がなんとなく正義感をうやむやにしてくれるのではあるが、私はこの正義感が、表現や進化に対して、とても邪魔な存在として思えるのだ。死に関する題材も、厳粛ななかで行う葬儀も、笑いの場所として設定することだって可能だ。想像を絶する落差に、瞬間的感情は生まれる。培った教育や曖昧な正義感が崩れ去るのを、いや崩してくれることを、どこかで望んでいたりする。その描線を刺激することは、全てを正当化することで許されるのではないか。正当化ではなく、解明に置き換えれば、証明に徹すれば……、という行為そのものが既に笑えて仕方がない。
「クレマスター」という5作品で完結する映像作品がある。7時間という上映時間だが、見終わった後、面白かったという感想を述べている人々を尻目に、私はなんだか笑いが込み上げて仕方なかったことを思い出す。クレマスターとは、男性器にある睾丸を吊る筋肉のことで、医学用語である。温度変化によって伸びたり縮んだりする(男性のみ解ると思うが)のだが、この部分を人間が行動する上で、状況によって行ったり来たりすることを重ね、結局どこにも着地していない不明瞭な状態に美学的見地を持ったところから名付けられたようだ。なんだか悲しげな美学ではあるが、この変化球には失礼ながら笑わされ、考えさせられた。
この作品を手掛けた芸術家<マシュー・バーニー>の作品は全てにおいて難解だが、表現方法が実に面白い。この「クレマスター」にしても、起承転結がクリアな訳でもなく、誰という相手を想定することもない。映像作品という入り口は万人にも受け入れ易いが、出口を見失うのは間違いない。しかし、これがハマる。どこかで納得してしまう魅力がある。何に納得しているのかさえ、解らなくなってしまう、余白だらけの表現だ。しかし、その映像美や色彩の使用方法は、鋭いファッション性を感じさせ、画面を構成する全ての要素(空間、建築、人物等)は、さすが彫刻家と思わせる、強烈な美的感覚に溢れている。内容解説はスペース上割愛するが、ハリウッド級の予算を投じたであろう(資金調達術を知りたい)、至福の極み的作品ではないだろうか。
マシュー・バーニーという名前を日本で一般的に知られるようになったのは、3年前に金沢21世紀美術館で開催された「マシュー・バーニー:拘束のドローイング展」であろうか。この「拘束のドローイング」とは、彼がスポーツとアートの両面を組み合わせた表現手法であり、シリーズ化しているのだが、パフォーマンスとしてのストイックさと動的な不可思議さの両面を持っていると私は思う。足をしばりながら天井近くの壁に必死になって線を描く図は、滑稽ながらも、「負荷を克服すれば、より大きな成果が上がる」という考えに基づいており、カラダのみならず、その鍛え抜かれていく精神性に影響され、自分の状況に置き換え、思考してしまう(少し笑う)。
マシュー・バーニー:拘束ナシ
Matthew Barney: No Restraint
10/4(土)よりライズエックスにてロードショー!
2007年/アメリカ/カラー/71分
監督:アリソン・チャーニック
出演:マシュー・バーニー、ビョーク、ジャック・ヘルツォーク(建築家) ほか
配給:トモ・スズキ・ジャパン
協力:アップリンク、アニエスベー、コロムビアME、ユニバーサルミュージック、横浜トリエンナーレ2008
後援:アメリカ大使館
http://matthewbarneynorestraint.jp/