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“存在” 青木京太郎


  頻繁に会うことは決してなく、定期的でもなく、不意打ちである。どこか気になっていて、いつも何かしら伝えたり、伝えられたりするのだが、近いところではなく。でも安心して接することができる。そういう“存在”として初めてちゃんと向き合った時に、なぜか「大丈夫」と感じることがある。何を根拠にジャッジをしているのか全く解らないのだが、この「解らない」という感覚を放置しても良いと思える。これは無責任ではなく、むしろ安心に近いものであって、こういう“存在”になりたいとすら思う。

  青木京太郎(私は勝手にKYOちゃんと呼ぶ)の作品に初めて遭遇したのは、当時、顔を出していた恵比寿のP-houseという場所であった。その時から、KYOちゃんの“存在”はまさに「大丈夫」であった。緻密な作業ながら、物凄く強いアプローチを感じたのを記憶している。クリエイター的な人間をはじめ、面白い方々が集まるそのお店で、私は様々な人にお会いしたり、お話させて頂いたりしながら、そこに集まる情報なんかを必死に追いかけたものだが、改めて思い返すと、驚いたことに最初に思い浮かぶのは「KYOTARO」なのである。様々な人間が行き交い、たくさんの情報量に負けない記憶が、私の頭には焼き付いていたということになる。私の「大丈夫」はそこからくるものなのだろうか。


  さきほども書いたように、緻密な作業は鉛筆で丁寧に描かれたものである。その集中した線の構成は彼女の目指した漫画の世界からくるものだろう。イラストレーションとして捉えるにしても、なにかが違う。明らかに自分が目指した世界から、はみ出てしまった強い念を感じる。細やかな線の集積が独特の曲線を生み出しており(私はこの曲線の構成がやけに好きなのである)、その曲線そのものがもう生物である。生物の集まりがひとつの生物になっていると感じるほど、無駄なパーツがひとつもない。この世の中に存在しているものは、様々な要素で構成されており、そのある種の完成型が人間だったり、昆虫だったり、植物だったりするわけだが、全てが生存するバランスを整えようとしながら進化している。彼女の作品が今にも動き出しそうなのは、同様の世界がキャンバス内で繰り広げられているからだろう。作品が自ら鮮度を保ち始めたり、破壊し始めたりでもしたら、それはそれでちょっと怖い話ではあるが。


  先日、久々の個展『天界トリップ』の告知をもらい、会場のミヅマ・アクションに訪れた。KYOちゃんから送って頂いた「大作ばかりです」と書かれたDMを持って、ふらりと見に行ったのだが、作品全てが進化したリアリティを放ち、以前より強い生命が宿ったかのようである。神様と崇められていたりするモチーフを一心不乱に描いたであろう作品の、ひとつひとつに込められた神話性を私は妄想した。一見とても親しみやすいモチーフは、女性的な可愛らしさを持ち合わせているのだが、そこに渦巻く曲線は、やはり動いていた。KYOTAROは常に動いているのだ。彼女が感じた神からの指令は、この展示をすることだったんだろう。作品を見て欲しい、という願いではなく、動いていこうとするエネルギーを感じる。

  私が「大丈夫」だと思える存在は、やはり、絵を描くという行為にひたむきな使命感を得た、絶対的に任せられる、安心な“存在”であった。

 

 

画像提供:Mizuma Art Gallery

 

青木京太郎
KYOTARO展「天界トリップ」
会場:Mizuma Art Gallery
東京都目黒区上目黒1-3-9藤屋ビル2F
Tel:03-3793-7931
日程:現在開催中~8月9日(土)
Agent&Creative company 代表取締役兼プロデューサー。新しい才能に目を向け、プロデュースからディレクションを業務とする。ギャラリーとは異なり展示施設を持たず、人に力を注ぐ業務展開を行い、様々な才能を輩出。作家マネジメント及びプロデュースを手掛けながら、付随する業務を全てこなす。その他に、制作部門を独立させ<diffusion.>の代表も兼任。商業施設、広告等のアートディレクション、デザインも受注し、制作物のプロデュース、プランニングまで手掛ける。 http://www.philspace.com/