
人間が各々の正当性のみを主張し、社会生活を行う。少し言い過ぎかもしれませんが、その延長線上に起こる出来事が、ネガティヴな結果になるケースが多いような気がします。社会で生活している者にとって、個人的主張を正しく行うことが不可欠な世の中ですが、個人の正当性は、あくまで「個人」で下した途中段階であり、その他の状況や立場を踏まえたものではないという事を、改めて認識した方がよいと感じています。「家族」という単位でも同じことですが、時代の変化と共に、その在り方は大きく変わってきたのは皆さん、当たり前のように実感していることでしょう。核家族化の問題、育て方の変化という観点ではなく、この国で、人間として生活する上での「塩梅」がポイントではないでしょうか。そこは果てしなくグレーゾーンであるが故に、明確な部分を追求する風潮があるのですが、「塩梅」に明確さはありません。「塩梅」そのものが、この国の良さなのかもしれません。
前フリが、長くなりましたが、先日足を運んだ、浅田政志『浅田家』という東京初個展。そこに、様々なヒントが隠されているような気がしてなりません。浅田政志の記念写真としての作風は、全て家族で成り立っています。そして、全てが意図的な演出の上で構成されています。
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会場に貼ってあった本人の言葉がとても素晴らしかったので、ほんの一部ご紹介しますが、7月中旬に発売される作品集「浅田家」にも、そのテキストは掲載されておりました。全文はそちらで読んでください。
記念写真というのは、とてもパーソナルな想い出であり、そこにその時の人間関係が映し出されている分、様々な感情が渦巻くものです。なのに、こんなに他の家族の記念写真が欲しいと思ったことは初めてであり、その写真から伝わってくる優しさや演出なんかは、まさに「塩梅」でしかないと思うのです。希薄な人間関係を問題視する前に、身近な人とのコミュニケーションによって生まれる様々な歪みなんかも、実はとてもドラマティックなことなんだと再認識することが大切なのではないでしょうか。終始笑いが絶えない会場で、とても当たり前であった家族の絆を、まさか変化球で気づかされるとは思いませんでした。
浅田政志写真展「浅田家」