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SIHHで輝いた詩的世界に、アートとしての時計の意義をみる

篠田哲生プロフィール

 

 SIHHにはたくさんの時計メーカーが参加していますが、とりわけ取材を楽しみにしているメーカーがあります。それがヴァン クリーフ&アーペル(VCA)。1906年にパリで創業した名門ジュエラーのため、時計愛好家にはあまりお馴染みではないかもしれませんが、私は同社の「ポエティックコンプリケーション」というコンセプトが気に入っており、新作が発表されるのを心待ちにしているのです。

 

 そもそも時計は時刻を示すための道具なので、最高の品質とは“高精度”でした。しかしクオーツムーブメントが実用化され、現在では電波時計によって“時計が狂う”という心配すらも無くなりつつあります。こうなると精度面ではどうやっても太刀打ちできない機械式時計は、身を飾る装身具としてプロダクト的魅力や工芸的美しさを追求するようになるのは当然でしょう。

 

 自社ムーブメントに磨きをかけるメーカーもあれば、華やかなデザインでアクセサリーとしての価値を高めるメーカーもありますが、VCAのポエティックコンプリケーションでは、ピアジェやジャガー・ルクルトのマニュファクチュールキャリバーを使用し、さらに彫金やエナメルなどの伝統技法を用いることでジュエラーらしい美意識を表現し、その究極形を見せてくれるのです。

 

 今年の新作で最も目を惹いたのが「Le Pont Des Amoureux(ポン デ ザムルー=恋人たちの橋)」。

 

 9時位置側にレトログラード時針、3時位置側にレトログラード分針を持ち、互いが動くことで時刻を示すという特殊機構。この時分針を男女のモチーフにすることで、時計は突然ドラマチックな舞台にしてしまいました。

 

 早く恋人に会いたいと60分おきに橋の上を行き来する男性と、それをじらすかのようにゆっくりと12時間かけて歩み寄る彼女。彼の12回ものアタックが実を結び、ついに二人は橋の中央で熱いキスを交わす。この“時計史上最長のキス”は11時59分と23時59分から1分間かけて行われますが、時間がくると二人はまた離ればなれになってしまう(レトログラード針なので)…。何とロマンティックで詩的な機構なのでしょうか。

 

 しかもその舞台であるダイアルは、コントルジュールエナメルという技法で描かれます。これは18世紀に使用されていた技法にVCAが新解釈を加えたもの。光の陰影をモノトーンのグラデーションで描いており、月明りが家並みを照らす静かな夜の雰囲気を演出しています。

 

 ここ数年の時計進化は、マニアックな新技術の上積みに終始していましたが、それを楽しむためには多くの理論武装と長々としたウンチクが必要です。しかしVCAのポエティックコンプリケーションが描き出す世界に解説は不要。つい時刻を知るという時計本来の役目を忘れてしまいそうですが、“時計を眺める”という行為が楽しくなるのは間違いありません。

 

SIHHで輝いた詩的世界に、アートとしての時計の意義をみる   Van Cleef & Arpels
Le Pont Des Amoureux/ポン デ ザムルー

ダイアルの中央に架けられた橋の上で繰り広げられる“男女の恋の駆け引き”を楽しむモデルで、搭載するムーブメントはジャガー・ルクルト製の手巻きキャリバー846がベース。
セットされるダイヤモンドは105個(2.6ct)。
ホワイトゴールドケース、ケース径38mm。1239万円

 

SIHHで輝いた詩的世界に、アートとしての時計の意義をみる  

エナメルとは金属板に釉薬を塗り、焼き付けることで絵を描く技法。コントルジュールエナメルでは様々な透明度の釉薬を用いて光のグラデーションを演出する。完成までに40回も焼き付ける必要がある。