「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ……」。
多くの人が一度は口ずさんだ経験があるのではないでしょうか。名曲『椰子の実』。しかしその歌詞が、日本における民族学を創始した知の巨人・柳田國男の体験に基づいていることはさほど広くは知られていない気がします。まだ大学生だった柳田が、愛知県伊良湖岬の海岸で偶然に見つけた椰子の実。
その記憶を親友の詩人・島崎藤村に話したことから、この流麗な詞は生まれたのだそうです。面白いなあと思うのは、日本の海岸に流れ着いた椰子の実という同じひとつのモチーフを、島崎藤村は詩にしましたが、柳田國男は“日本人南方起源説”という学説としてまとめたこと。学生時代は田山花袋や国木田独歩と一緒に同人誌を創るなど、文学青年であった柳田ですが、資質としてはやはり学者向きだったのかもしれないですね。
そんな柳田國男の名を不朽のものにし、日本の民俗学研究の夜明けを告げた名著が『遠野物語』です。現在の岩手県遠野市に息づいていたフォークロアを、柳田國男が一冊の書物に編み上げたもの。天狗や川童、座敷童衆(カッパやザシキワラシには『遠野物語』ではこんな漢字が当てられていました)が生き生きと跋扈する、不思議な昔話の世界です。この初版本が出たのが1910年といいますから、今年はちょうど『遠野物語』刊行100周年にあたるわけです。ちなみにこの初版本、部数はわずか350冊だったそう。最初は本当にささやかな自費出版本だったわけですね。それが昭和10年に増補版が出て、人気に火がついた。それだけ、夢と現実の間にあるような遠野の習俗が、都会の人々には魅力的に映ったということでしょう。
そんな遠野の地ですが、『遠野物語』によって名前を聞いたことはあるけれど、実際には行ったことがない、という人が大半でしょう。まあ、訪れるのに便利な場所とは言いがたいですからね。
遠野市の中心部には盛岡から車でも2時間ぐらいはかかると思います。しかし、それだけ俗化していないということなのか、遠野はいいところですよ。水車小屋や南部曲り家の民家など、遥か昔の田園の情景がいまだに美しく残されています。今回は、そんな遠野の風景をいくつかご紹介しようと思います。
まず、遠野の観光スポットの中で、最も有名な「カッパ淵」。何度か河童(普通はこう書きますよね)が目撃されたという流れには、河童を釣り上げるために好物(?) の胡瓜をくくりつけた縄が垂れています。水辺では、河童捕獲の許可証を持つという(007みたいだ)“カッパ淵の守っ人(まぶりっど)”の、運萬治男さん(本当は観光協会のボランティアガイド)が、軽妙なトークで訪れた人に河童の説明をしてくれます。腰には、河童捕獲用の網。「それじゃ小さすぎるんじゃないの?」と観光客が突っ込むと、「いや、これは河童の子ども用だから」と切り返します。
そんなユーモラスな情景の「カッパ淵」ですが、そのすぐわきにはここに安倍氏の館があったことを示す碑と稲荷堂。安倍氏とは高橋克彦の『炎立つ』にも描かれた、奥六郡の支配者ですね。このささやかな流れは、そんな歴史の深みにもつながっています。周囲に「河童を2回半見た(2回半というのがおかしい)」と語っていたという初代“カッパ淵の守っ人”の老人も、歴とした安倍氏末裔だったのだそうです。
■カッパ淵 |
■伝承園 |