ゴッホやルノワールなどの絵画は、誰もがためらいなく「美術」と思いますが、私がこのFERICでご紹介している方々の作品を見せた場合、どうも「美術」という概念では見て頂けていない印象を受けます。そんな曖昧な状態に使われる事が多いのが「アート」という言葉ですが、個人的にはどういう解釈でお読み頂いても構いません。

私が思うアートの意味は「表現」そのものだと思います。日常の会話や、スポーツやエンタテインメントなどにも、ある種、美しい部分を感じたりします。そこに「表現」があり、それがアートだと思えるんですね。

では日常見られるそういった何気ない「表現」と、アートの表現とは何が違うのか、と聞かれれば、やはり、元は普通の「表現」なんだと思います。ここは比較するのではなく、その瞬間瞬間をどういうカタチで捉え、観る側に提案するか、否か、その違いなんだと思います。

  ある作品を前にして、その作品の中に絶対的に「入っている力」みたいなものを感じる瞬間があります。たとえば、絵の中の線1本にも、作家のすべてが入っているような作品。

そういう「力」を感じると私は、この作家はどういう人生を歩んだのかなとか、作家の歩いてきた道を勝手に妄想してしまう。それはきっと、線1本に込められたストーリーを見る側に考えさせる作用があるということですよね。文脈や風景を思い起こさせる作品は感情を揺さぶります。こういう出会いは、嬉しくなりますね。

日常の何気ない表現では、自分のすべてをさらけ出すことなんて、めったにないですからね。

でもそれをあえて表現したもの、表現せざるを得なかった感情が、アートという言葉に近づいていくのではないでしょうか。そんなギリギリの心境から創造されたもの、そこにアートの力があるのだと思いたいんです。
 
 
作品の展示空間自体にも、ある種の力を感じます。その空間に作品を展示することで、さらに新たな空間の意味が生まれる。展示空間に作品を置くとき、真ん中に置くのか、端っこに置くのかで、観る人が展示室に入ったときに受ける印象は全然違うものです。

  しかも、展示して表現する以上、観る人が存在していることによって、展示空間の意味はさらに増してきます。その空間自体が一体になるとでもいいましょうか。作品を家の部屋に飾るとき、その作品選びによって、まったく印象が変わるのと同じ事だと思いますが。

空間と作品と観る人たちの共有体験、それがアートを感じるときの私の愉しみのひとつだったりもします。

例えば、愉しかったという私の感情は、ひとつの「点」でしかないかもしれませんが、私が展示会場の外に出て、その愉しみを誰かに伝えたとすれば、点が線になっていきますよね。その線が繋がっていき、面になっていく。ある種マーケット理論っぽい普通の考え方ですが、この構造を絵的(もしくは図的)に想像すると、「様々な人が線を描いていく」構造図みたいな。頭の中では面白い絵が出来ているんですが、伝わらないですよね(笑)。

つまり、何が言いたいかというと、やはり、表現することの全てが、アートに置き換えられるんだと思える瞬間なんです。