山海塾は日本の現代アートを代表する、世界的に有名なパフォーミング・アート集団ですね。

全て個人的なお話しになりますが、私が山海塾を最初に「実体験」したのは、中学か高校の頃だったでしょうか。正直に言うと、怖かったですね。辛くて耐えられなかった。言うなれば、まったく無防備で飛び込んだ世界だったんですね。成熟していないのに、情報ばかり求める好奇心だったんでしょう。ただ、その頃でも、ステージ空間の美しさは印象的で魅せられましたね。

人と人、自己と他者が交信するときの、依存して生きている部分をあえて拒絶し、なおかつ自分自身によりかかることも拒絶した場合に、人間は何をするのか。普段の生活の中で無意識に行っている自分の動きを、どんどん削り取っていったときに、何が残っているのか。山海塾の舞踏手たちは、人間の動きを極限まで突き詰めた何かを、言葉で表現するのではなく、身体で表現していたように感じられる。

  もちろん全ての公演を見ているわけではないので、別のテーマや解釈もあります。ただ一貫して、私はそういった本質を追い求めている印象を受けています。

 
  舞踏としての「緊張」と「緩和」。代表の天児牛大氏がどこかで書いていたこの言葉はとても印象深く脳裏に残っています。それは、重力をも理解した表現であり、人間そのものの存在を問う。人間とはどんな作用を起こし、どのように営むのか。まあ、こういう話は長くなりますが(笑)。「突き詰めていく」という行為そのものが魅力的ですから。

言うなれば「概念」を振り付けする、とでも言うんでしょうか。一度お会いしてお聞きしたい部分でもあります。私がある程度の年齢になってからは、自由な解釈も踏まえ、理解している気にもなっていますが、やはり昔の私にとっては、あまりにも耐え切れない対峙でした。とても失礼で、お恥ずかしい話ですよね。じっとして動かないでいるダンサーたちの強烈な念のようなものが、そのまま私の中に入ってきてしまうような感覚は、未知だったんです。

  クラシックバレエの「美しさ」や演劇的「笑い」には、ある種の開放感が伴います。けれども山海塾の「対峙」はそれらとは真逆。でも、真逆ではあるのだが、そこに開放感とも似た自由の境地を垣間見せる力があるんです。稚拙な表現ですが、この社会の中で普通に生きていると、自分の本音を押し殺したり、本音とは違うことを言わなければならなかったりと、その時々の状況や相手に応じて自分を変えなければならない。つまり、本当の意味では、自由ではないのかもしれません。

人間の不自由さをすべてそぎ落としたときに、内面から何が出てくるのか、という「究極の自由」を表現する試みに挑んでいるような気がします。対峙したときの語りかけに、私は自由じゃなかったんだと思えますから。

何しろ「究極の自由」にはよりどころがない。すべての言動を自分自身で行わなければならない。その境地を垣間見れたとき、人は自分自身の本当の感性で、世界に対峙し得るように なるのかもしれないですね。
 
   
  1975年に主宰・天児牛大(あまがつ・うしお)によって設立された舞踏カンパニー。1980年より海外公演を開始し、1982年からは、世界のコンテンポラリーダンスの最高峰であるパリ市立劇場を創作活動の本拠地とし、およそ2年に1度のペースで新作を発表しつづけている。現在までに世界43カ国のべ700都市にて上演を重ねており、作品の普遍性とその表現の芸術的強度によって、世界各国できわめて高い評価を得ている。 82年以降の作品は、すべてパリ市立劇場との共同プロデュースによって発表されており、本年5月には、最新作(タイトル未定)が同劇場で世界初演される。なお、2年半ぶりとなる国内ツアーは、9月半ばより、北九州芸術劇場、世田谷パブリックシアターを含む8箇所にて行われる。